関鑑子と鈴木弼美

うたごえと独立学園 グレート・ラブとハッピーバースデー

今日はなにやら長いタイトル(春樹さんを真似たわけではないですよ)

19日

午前中は「つくしの子保育園」で、「青い鳥保育園」のこどもたちも集まって楽しく歌の会。

夜の太田真季さんのコンサート。ここはまきさんの出身地、たくさんの人が集まってくださり、函館の夜に、豊かに真季さんの歌が響きました。私も少しだけお手伝いを。

20日

函館から東京に空路移動、2日間の合唱講習会に参加。

函館で「グレート・ラブ」関鑑子(あきこ)の生涯(新日本出版社・三輪純永著)をいただいたので一気に読んだ。

「うたごえ」の創始者である関鑑子のバックボーンは、彼女が師ハンカ・ぺツォルトから受け継いだ「グレート・ラブの精神」であった、と三輪さんの前書きにあるが、この師、日本の声楽の母といわれたぺツォルトがノルウェー人であると知った時に、鮮やかに「うたごえ」と「小国フォルケ」が響きあい、関鑑子と鈴木弼美(すけよし・独立学園の創始者)が私の中で、一本の糸でつながった。

同じ年(1899年)に2ヶ月も違わずに生まれた2人が、この地上で交差したことはなかっただろうが、どちらも戦争に反対し、自らを貫いて弾圧を受けたこと、戦後、時を同じくして「うたごえ」と「独立学園」をはじめたことなど、2人の生き方が私の中で重なりあった。独立学園もうたごえも、今年65周年を迎えるのだ。

***
そして、

何ができるかとか、できないかとかとは関係なく、みな等しく生まれてきてよかったのだという「ハッピーバースデー」の歌と、「うたごえ」の底流を流れるグレートラブの精神は、実は湧き出る泉が同じであったという、不思議で嬉しい発見でした。三輪さん、ありがとうございます。
ぜひ皆さんもこの本を、、。

22日
前夜小国に戻り、今日午前中は民生委員の集まり、午後の授業はずっと暖めていた歌「沈黙の中に」
さて、みんなの心に届いたかな?
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by oguni-folke | 2013-04-22 18:47 | Comments(20)
Commented by えひめみかん at 2013-04-23 00:24 x
もうこうなると、武先生とうたごえは、運命の赤い糸で結ばれていて、出会うべくして出会った感じですね。
講習会ではお世話になりました。今回初めて「ハッピーバースデー」を歌ったうちのサークルの人は、「何でだろう」と言いながら、涙をうかべて歌ってました。(me, tooですが)
今度は確か8月に千葉にいらっしゃるのでしたでしょうか?
みんなでお待ちしております。
Commented by ふぉるけまん at 2013-04-23 09:02 x
えひめみかんさん、今回もありがとうございました。
ハッピーバースデーは不思議なうたですね。もう何千回と歌ってきましたが、そのたびに新鮮です。大阪でも歌うことになったのですよ。8月の千葉、楽しみにしています。
でも、ふぉるけまんは何をしたらいいのでしょうね?
Commented by えひめみかん at 2013-04-23 17:01 x
じぇじぇ!!? 
合唱発表会の講評委員ではなかったかと......。
Commented by ふぉるけまん at 2013-04-23 17:25 x
じぇじぇじぇ!
そうでした。できるかなあ?
Commented by Lydia at 2013-12-29 05:13 x
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Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:02 x
関鑑子(日本のうたごえ運動創始者)ご紹介

関 鑑子(せき あきこ、1899年9月8日 - 1973年5月2日)。声楽家、音楽教育者、音楽評論家。

第二次世界大戦後、日本共産党員として同党の文化政策に基づく実践活動を行い、国内外において、日本のうたごえ運動の創始者と見なされるようになった。

■ 経歴

父 関厳二郎(美術評論家。雅号 "関如来")、母 トヨの長女として、東京都本郷区龍岡町(当時)に生まれる。

Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:04 x
1921年、東京音楽学校本科声楽科卒業。ソプラノ歌手となるが、大正末期からプロレタリア芸術運動に参加。マルクス・エンゲルス共著「共産党宣言」、エンゲルス著「空想から科学への社会主義の発展」など、共産主義の「多くの古典」を学習する。 関はのちに、この時期を自身の「青春時代」として、次のように回想している。

「好きなものはヨーロッパの小説や詩の類で、これは従兄が早稲田の文科に通っているのがいたせいもあり、当時翻訳があるものはほとんど全部と言っていいくらい読んでいました。[...]関東大震災後、帝大の学生が本所の柳島にセツルメントを設け、ここで社会の実地教育を経験することになったとき、託児所で歌を教えるために学生達は当時第一の花形歌手たる私を選んできましたので、私も快く承諾して一週一回ずつ二人の帝大生に送り迎えされながら託児所通いをして種々な楽しい童謡を教えました。[...]ここで子どもに歌を教えながら自分は色々のことを見知りました。貧民窟といわれるここの社会の実情、音楽学校以外の学生生活、貧民に対するこれら学生の熱情、私は学生らしい気持でここに働いている学生と異常な熱をもって働いている学生とすぐ見分けていました。前に書いたようにヨーロッパの小説、とくにトルストイ、ツルゲネフの影響をうけて男の中の男は革命家だと考えるようになっていたのです。私が独身主義を(そういう主義だったことも若々しいでしょう)捨てるならば革命家と結婚すると、雑誌記者の質問に答えたことがありました 」
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:05 x
1926年12月24日、新劇俳優の小野宮吉と結婚。以後、本名は小野鑑子。結婚披露宴の席上で、「私は今日の音楽がブルジョアに占領されているのを打開して、音楽の民主化運動に精進したいと思います」との決意表明を行った。

1929年4月26日、プロレタリア音楽家同盟(PM)創立に参加。音楽家同盟は、全日本無産者芸術団体協議会に加盟。

1932年3月、小野宮吉、日本共産党員として治安維持法により検挙、豊多摩刑務所に収容される。翌1933年10月、肺疾患重篤により保釈され、鎌倉のサナトリウムで療養。

1934年3月、プロレタリア音楽家同盟、解散声明を発表。

1946年5月1日、第17回メーデー(東京・宮城前広場)で、「赤旗の歌」「インターナショナル」を指揮。その経験から、うたごえ運動の構想を抱きはじめる。

1948年2月10日、日本共産党の方針に従い、日本青年共産同盟中央合唱団を創立。

1951年、音楽センターの主宰者となり、この頃から「うたごえ運動」の実践活動を本格的に展開。運動は、職場・学園・居住地域における合唱サークル組織を通じた、労働者階級の政治・平和運動として発展した。1954年(昭和29年)には、参加者3万人規模での「日本のうたごえ祭典」を実現するにいたった。
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:07 x
1955年12月9日、スターリン平和賞受賞が決定。

1956年1月、関は雑誌記者にスターリン平和賞の賞金の使途を問われ、次のように回答したと報じられた。

「-スターリン平和賞の賞金の使いみちは...
  うたごえ代表とよく相談してきめます。私個人としては、うたごえ階級の子どもから教育する音楽学校の設立。なんぎして音楽運動をすすめている人たちに役立てたいと思います。たとえばこういうひとたちにも...
  といって女史は、胸のポケットから一通の祝電をとりだしてキチンとひろげてみせた。「スターリンショウ オメデトウ トモニ ガンバルヲ チカウ アリノカイ」

1956年(昭和31年)5月31日、スターリン平和賞授与式(モスクワ、クレムリン、閣僚会議館[現 ロシア連邦大統領官邸]にて)。D.V. スコベリツィン[Дмитрий Владимирович Скобельцын]同賞選考委員会議長が下記の祝辞を述べ、記念メダルと賞状を手渡した。

「関鑑子さんの名はほかの受賞者の名と同じように世界の人びとによく知られている。この人びとの名は進歩的な人びとの意識の中で平和・友情・幸福という大きな意義深い言葉と結びついている。[...]日本の国民の合唱運動がこのようにひろがっているのは、それがその進歩的な目的、民族独立、平和擁護、諸国民間の友誼を打ち立てる日本国民の闘争の目的に仕えているところにある。関鑑子さんにスターリン平和賞を授けられたことはまた全日本国民の平和闘争の大きな意義が認められたことでもある。日本国民はアジアと全世界に平和を打ち立てることを要求している。この闘争によって日本国民はほかの国民とくにソヴィエト国民から支持されている。ソヴィエト国民は日本国民およびほかのすべての国民と平和に仲良く暮らしたいと思っている。われわれは両国の経済・文化関係を全面的に発展させたいと思っている。これによって全世界の平和の維持と強化に役立たなければならない」
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:08 x
関は答辞として、次のように述べた。

「日本国民は深く戦争を嫌っています。日本国民は他の国民との平和と友情に向かって進んでいます。そして原子兵器反対の勇敢な闘いを行っています。いま平和の力は測り知れないほど大きくなっており去年に比べて平和の見通しはいっそう明るくなっています。平和擁護者は全世界が平和になるまで闘いつづけなければなりません。[...]私は世界の平和擁護者と肩を並べて全世界の平和と幸福のための闘いを続けます」

また、「この光栄ある受賞は私個人でなく、平和を愛する日本人全体に与えられたものです。日本人は平和な、明るい歌を好む国民であります。10年前に始めたうたごえ運動は、日本中のあらゆる職場、農村、学校、家庭に広がっています」と述べ、合唱曲「東京-モスクワ」(小林はじめ作詞、藤本洋作曲)の日本語歌詞を朗読した。授与式に同席した日本の著名人は、村松梢風、石川達三、淡徳三郎、杉村春子、岡田嘉子、芥川也寸志、木下恵介、松岡洋子、片山やす(片山潜の娘)、小野光子(関鑑子の娘・声楽家)など。
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:10 x
1956年6月13日、関はモスクワから中央合唱団への書信で、日本のうたごえ運動の展望と同団の思想性について次のように論じた。

「日本とモスクワは、来年になると飛行機では5、6時間で往復できるそうです。冗談に私に、毎日モスクワに遊びに来られるなんて言っています。日本のうたごえと中央合唱団への期待は大きく、美しい思想とその達成のための固い団結と実践に、つねに尊敬と友情がはらわれています。[...]私たちの一線 ― 貫かれているものはつねに、みんなで決めた綱領・規約です。中央合唱団も日本のうたごえも、たしかに私の提唱によって誕生しました。しかしみんなで約束したものとなったら、みんな同じ思想 ― で実践が貫かれてゆくように、お互いに助け合わなくてはならないと思います。みんなの中に深さ浅さ、考え方の中にも様々あるのが当然です。それゆえにこそ、みんなで同意できる約束を公然と約束するのです。私たちはいかに多角であっても、一角は固く結ばれた同志であることは、この約束を生かすということで明らかとなります。中央合唱団は当初から約束を変えません。思想も行動もますます発展してゆくと思いますが、そのために出発点が変わるということはありません。中央合唱団と同じ希望と実践を約束する合唱団が、日本の中に増えてゆくことは何という頼もしいことでしょう。ますます中央合唱団の責任と期待は大きくなるでしょう。日本のうたごえ運動の果てしもない広がりのためには、このことが大切なのです」
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:12 x
1973年5月1日、第44回中央メーデー(代々木公園)で、参加者約50万人の全員合唱「世界をつなげ花の輪に」(箕作秋吉作曲)を指揮。その直後に壇上で倒れ、虎の門病院に入院。翌2日14時20分、くも膜下出血のため死去。

1973年5月4日、東京都新宿区の音楽センターにて告別式。参列者は、日本共産党中央委員会から蔵原惟人(常任幹部会委員)、春日正一、紺野与次郎(幹部会委員)、須藤五郎(中央委員)、山下文男(文化部長)ほか多数。著名人では、山根銀二、清瀬保二、外山雄三、中沢桂、井上頼豊、千田是也、村山知義、宇野重吉、南原繁、井口基成、久板栄二郎、松田解子、松本正雄、風早八十二など。中央合唱団の渡辺一利団長は弔辞の中で、この日から同団を「関鑑子記念・中央合唱団」と改称すると発表した。

1973年5月23日、神田共立講堂にて「音楽葬」。葬儀委員長は太田薫。参列者は、紺野与次郎、須藤五郎、河原崎國太郎、村山知義、櫛田ふき、オレグ・アレクサンドル・トロヤノフスキー(駐日ソ連大使)などを含めて約1500名。新星日本交響楽団、アルトゥール・エイゼン、「関鑑子記念・中央合唱団」のほか、複数の楽器奏者や声楽家が演奏。参列者による追悼演奏として、故人が最後に指揮した曲である「世界をつなげ花の輪に」の全員合唱が行われた。
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:13 x
■ 日本のうたごえ実行委員長としての海外渡航歴

1955年2月~9月、ドイツ民主共和国、ソビエト連邦、中華人民共和国、オーストリア、ポーランド(ワルシャワ「世界青年学生祭典」に出席)

1956年5月~9月、ソビエト連邦(スターリン平和賞授与式に出席)

1962年4月~5月、ソビエト連邦(第2回 チャイコフスキー国際コンクール来賓)

1962年7月~8月、ソビエト連邦(モスクワ「全面軍縮と平和のための世界大会」に出席)

1964年5月~6月、ソビエト連邦(日本のうたごえ合唱団ソ連ツアー公演、連邦各地で23回開催)

1966年6月~7月、ソビエト連邦(第3回 チャイコフスキー国際コンクール、当年度に新設された声楽部門の審査員)

1970年6月~7月、ソビエト連邦(第4回 チャイコフスキー国際コンクール、声楽部門審査員)

■ 日本共産党中央委員会主催事業での任務遂行

1972年7月12日、日本共産党創立50周年記念「党を主題とする歌」入選曲、相馬公信 作曲「ひとすじの道」レコード録音(世田谷区民会館)。中央合唱団の録音演奏を指揮。

1972年7月18日、「日本共産党創立50周年祝賀中央集会」(渋谷公会堂)において、中央合唱団、新日本ポップス・オーケストラによる「ひとすじの道」の演奏を指揮。
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:14 x
■ 日常の活動

1955年、スターリン平和賞受賞当時は、東京都新宿区の音楽センターに隣接する30坪足らずの木造平屋に居住していた。中央合唱団の定時レッスンは、月曜日の夕刻と木曜日の終日。都内では、日本共産党中央委員会文化部、日ソ親善協会、日本現代音楽協会の定例会議に出席。加えて、日本のうたごえ実行委員会の都内11地区、全国8地域での会議、指導、連絡などのため、首都圏外の広域にまで東奔西走する日々であった。

■ 座右銘

「歌ごえは平和の力」

これは、歌声を戦争のための軍歌や国民歌謡に制限された苦い思い出から、平和のために、喜びのために大きい力を発揮させようという、うたごえ運動の約束の言葉です。いま、この合言葉で全国の青年が結集して、1964年日本のうたごえ祭典を準備しております(関鑑子 1964年)。

「艱難汝を玉にす」

大昔からの言いつたえとか格言とかは中々妙味があります。全然反対の事を言ってる場合もありますが、いつも感心しています。何しろわが家は武家で、祖父は槍術をもって藩主につかえ、父は漢学者ですから、日頃ききなれていたということもありましょう。「艱難汝を玉にす」なぞ自分の修行時代の座右の格言でした。今日でもいろいろ困難にぶつかる度に浮かんでくる言葉ですが、泰然と事に処すためには何事も経験であり、しかも経験慣れしないで、己を持すにはいつも新たな心がまえで、日々これ新た、と幼な児のように真剣に見きわめています(関鑑子 1971年)。
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:15 x

■ エピソード

・宮本百合子は1921年10月7日、東京都内の演奏会で関鑑子の独唱を聴き、翌日の日記に、「まだまだ。それをはっきりあの人に云い、もっともっと努力、ほんとうに自分のものを見出すだけの努力をさせないのは気の毒だと思う。まるでペツォールドの小さいひな型だ」と記している。ハンカ・シェルデルップ・ペツォルト(Hanka Schjelderup Petzold)はノルウェーの声楽家で、関が師事した東京音楽学校の教員。

・1926年末、関は音楽会のアンコール曲として、「赤旗の歌」を警察の事前許可なしに演奏したため、警視庁での取り調べを受けた。その際に、同庁の「外事掛長」が発した言葉を、関は次のように記している。

「あなたのような一流の音楽家には美しい歌や曲が沢山あるはずだ。なにも書生に担がれてつまらぬ物を歌わんでもええじゃろうに。俺も二三度、あなたの歌われるのを聴いて感心しとったもんだが、どうも人というものは解らないものだ。あなたがそんな人とは思わなかった。今後改めれば良し、もし改めなければ、自分はあなたが音楽家として再びステージに立っていけんようにする。自分らとしては、そういうことも出来るのだし。とにかく今のところ、自分はあなたを共産主義者として見ているから、そう思いなさい」

・1956年1月11日、関鑑子は東京・銀座のレストランで美空ひばりと対談し、「日本的な情緒の豊かな美空ひばりさんの歌がとても好きになった」との旨を語った。

・作曲家 芥川也寸志は、モスクワでショスタコーヴィチに出会った際に、「運転手になりたいのか」と訊かれて驚いた。芥川はかつて、自分が関鑑子に「ショスタコビッチの運転手をやってもいいから彼のところで勉強したい」と打ち明けた。それをショスタコーヴィチ本人が、関から聞いてすでに知っていたのだと、芥川に話してくれたという。
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:20 x
■ 著述

『苦い涙の試練を越えて』(講談社、月刊「婦人倶楽部」1924年1月号所載)
『地声を朗らかに感じよくするには』(同上、1926年5月号所載)
『実際にあった会話』(「文芸戦線」1927年1月号所載)
『懐かしき母校の想い出-恩師を偲びて』(「婦人倶楽部」1927年4月号所載)
『結婚当時意外に感じたこと・嬉しかったこと』(同上、同号所載)
『検閲-音楽-プロレタリア』(マルクス書房、月刊「プロレタリア芸術」1927年9月号所載)
『闘争歌のうたい方』(秋田雨雀、江口渙 監修「綜合プロレタリア芸術講座 第2巻」[内外社、1931年]所収)
『音楽家生活』(新知社、月刊「婦人文芸」1934年12月号所載)
『女性の考え方』(労働文化社、月刊「労働文化」1947年1月号所載)
『私の夢・古い新人』(「人民戦線」1947年6月号所載)
『歌の「味」』(音楽の友社、月刊「音楽芸術」1947年10月号所載)
『研究生終了演奏会(声楽)評」』(同上、1947年11月号所載)
『歌唱指導』(「婦人文化講座 第3巻」[ナウカ社、1948年]所収)
『働く人々の音楽報告』(毎日新聞社、月刊「労働評論」1948年8月号所載)
『恋愛以前』(伊藤書店、「人民評論」1949年1月号所載)
『コンクールの声楽』(「音楽芸術」1949年2月号所載)
『哀れな娘』(民主青年合同委員会出版部、「われらの仲間」1949年4月号所載)
『進むうたごえ』(中国留日同学総会編、半月刊「中国留日学生報」1949年5月15日号所載)
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:21 x
『思い出』(「労働評論」1949年6月号所載)
『自立楽団協議会について』(日本民主主義文化連盟 編「文化年鑑」1949年所収)
『私のコンクール考』(同上、1950年5月号所載)
『「おゝカリーナの花が咲く」 』(世界映画社、月刊「ソヴェト映画」1951年2月号所載)
『プロコフィエフの声楽作品とその思想』(月刊「音楽芸術」1953年5月号所載)
『国民音楽について』(日本共産党中央委員会理論政治誌「前衛」1953年6月号所載)
『「音楽運動」発刊のことば』(音楽センター、月刊「音楽運動」1953年6月号所載)
『内灘の闘いと音楽運動』(同上、1953年7月号所載)
『世界青年祭各地のうたごえを「日本のうたごえ」に』(同上、1953年10月号所載)
『うたごえ運動はさらに発展する』(同上、1954年2月号所載)
『平和のうたごえをメーデーへ』(同上、1954年4月号所載)
『高まるうたごえとさしせまる任務』(同上、1954年5月号所載)
『八月十五日』(同上、1954年7月号所載)
『婦人代表としての光栄と責任』(新女性社、月刊「新女性」1954年9月号所載)
『日本と中国の平和のうたごえをよびかわそう』(「音楽運動」1954年10月号所載)
『日本のうたごえは国民の運動-合唱団の任務のために-』(同上、1954年11月号所載)
『世界の青春』(「新女性」1955年3月号所載)
『愛する街-歌い方と楽典』(同上、1955年4月号所載)
『ウィーン・アピールにこたえて-解説と体験記と署名用紙』(同上、1955年6月号所載)
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『平和と友情の旅から-ベルリンからウィーンへ』(同上、同号所載)
『世界のうたごえは起っている』(知性社、月刊「知性」1955年9月号所載)
『ワルシャワのうたごえ』(同上、1955年10月号所載)
『世界のうたごえの旅』(「音楽運動」1955年11月号所載)
『私が思うこと-藤井さんにお答えする』(「知性」1956年1月号所載)
『国際列車』(「新女性」1956年3月号所載)
『私のみた中国の演劇』(新読書社、「新読書」1956年4月17日号所載)
『うたごえ運動の理論-音楽とは何か-』(音楽センター芸術局 編「知性」増刊号[河出書房、1956年]所載)
『余談』(大山郁夫記念事業会 編「大山郁夫伝 別冊付録-大山先生の思い出」[中央公論社、1956年]所収)
『友だち』(講談社、月刊「群像」1957年3月号所載)
『期待と少しの不安』(学習の友社、月刊「学習の友」1959年1月号所載)
『明るい楽しい思い出-本所のセツルメント』(福島正夫、川島武宜 編「穂積・末弘両先生とセツルメント」[東京大学セツルメント法律相談部、1963年]所収)
『心の泉をくみとろう』(「学習の友」1964年2月号所載)
『明るい思い出、ソ連楽旅』(音楽の友社、月刊「音楽の友」1964年8月号所載)
『関鑑子自伝』(音楽評論社、月刊「音楽」1965年6月号より1966年2月号まで連載)
『歌ごえを平和の力に』(日本平和委員会 編「平和運動20年記念論文集」[大月書店、1969年]所収)
『中央合唱団の今日の任務』(「季刊日本のうたごえ」1971年4月創刊号所載)
『歌ごえに魅せられて』(音楽センター、1971年)
Commented by 日本のうたごえ実行委員会 at 2016-11-22 02:23 x
■ 新聞・団体機関紙への寄稿
 
『歌をつくりましょう-やさしく誰にもできます』(「アカハタ」1946年9月23日付)
『諏訪根自子のクロイツェル・ソナタ』(「文化タイムス」1947年1月13日付)
『職場に合唱団をつくるために-勤労芸術の道しるべ』(「労働民報」1947年5月24日付)
『知恵も食べよう-働く若い人々へ-』(「労働民報」1947年9月3日付)
『新しい音楽創造のために-ふたたび「作曲のすすめ」-楽曲の分析』(「アカハタ」1947年5月29日付)
『私の青春時代』(日本青年共産同盟中央機関紙「青年の旗」1947年8月25日)
『先生-今日の感想』(「東京民報」1947年8月27日付)
『甘いもの好き』(「アカハタ」1947年10月21日付)
『東西音楽家の提携-大阪文化会議所感』(「文化タイムス」1947年12月1日付)
『たくましいコーラス』(「アカハタ」1948年3月23日付)
『示威行進にスクラムを』(民主婦人連盟機関紙「民主婦人」1948年3月25日付)
『みんなうたう会を』(「全逓新聞」1948年11月6日付)
『損保従連・秋の文化祭-音楽コンクール評』(損害保険従業員組合連合会 東京支部機関紙「さけび」1948年12月24日付)
『成長のために』(「青年の旗」1949年1月2日付)
『音楽の大衆化』(善隣専門学校 編「善隣新聞」1949年2月20日付)
『常磐炭鉱の青年の音楽』(日本民主青年団編、週刊「民主青年」1949年6月26日付)
『みんなが生き生きとした歌をうたうためには』(婦人民主クラブ編、週刊「婦人民主新聞」1949年7月9日付)
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『青年の熱き心もて』(「民主青年」1954年1月26日付)
『中央合唱団創立2周年を迎えて』(中央合唱団機関紙「うたごえ」1950年2月号)
『具体的な詩音楽』(「アカハタ」1950年2月5日付)
『世界の人々が無罪釈放運動を-民衆歌手ポール・ロブソンに訴える』(「うたごえ」1950年6月3日付)
『平和署名を戦争を憎むすべての人たちに』(「うたごえ」1950年8月25日付)
『中央合唱団16期生の入団に際して』(「うたごえ」1953年10月12日付)
『ひとり思うこと』(「うたごえ」1954年1月7日付)
『船出』(「うたごえ」1954年1月24日付)
『国際婦人デーを迎えて』(「うたごえ」1954年2月25日付)
『外人演奏家の来日と日本人-民族音楽への気運・萌芽はもうそこに』(「立命館学園新聞」1954年10月11日付)
『進む平和! 高まる歌ごえ』(「婦人民主新聞」1954年10月30日付)
『世界にひびけ平和のうたごえ-うたごえの発展は国民の力-』(日本のうたごえ実行委員会中央機関紙 共同デスク「うたごえ新聞」1954年12月15日付)
『国際スターリン平和賞授賞式における挨拶』(日本のうたごえ実行委員会中央機関紙「うたごえ新聞」1956年8月20日付)
『世紀の歌姫 三浦環夫人』(「婦人民主新聞」1954年8月26日付)
『唇に歌 心に誇り』(「北國新聞」1955年12月18日付)
『中国の音楽界-民族にも素晴らしい未来-』(「朝日新聞」1955年12月22日付)
『生活とうたごえ』(日本民主青年同盟中央機関紙「民主青年新聞」1956年4月15日付)

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