夏草や 兵どもが 夢の跡
なかなか実現できずにいたのだが、もたもたしていると不可能になってしまうので、
年老いた父のたってのリクエストにこたえ、ときがわ町を訪ねた。
父は陸軍士官学校の61期生として終戦を迎えた。9月には旧満州にわたる予定だったというから、きわどいところだった。その終戦の日を挟んで、約4か月を過ごしたのが、現在のときがわ町の明覚(みょうかく)小学校。
敗戦のあと、司令部のあった越生まで武器を返却しに行き、その帰り道「これでまた生きられる!」と思った日のその風景が忘れられない、というので、それならばと一緒にいこうと、訪ねることになったのだ。
鴻巣の実家から車で40分、夏草のおい茂るときがわに到着。
8月の末、区隊長がふるさとに帰る父を送りに来てくれたという明覚駅から、炎天下に訓練をし、15日の放送を校庭で聞いたという明覚小学校、それから越生への道と、父にとっての懐かしい場所を訪ねて回った。
のちに非戦平和主義者としての活動を続けてきた父にとって、ここで過ごした日々は、こころのどこに位置しているのだろうか。ちょうど終戦の前日が20歳の誕生日だったので、「それからは年齢から20を引いて生きてきたんだよ」と父。
終戦直前の8月1日には、大本営から大佐がやってきて、「ロシアが日本のために働いてくれるから、負けることはない、、」と話したとか、また8日か9日ころには、広島に「新型爆弾」が落ちたけれど、白い服を着て、机の下などにいれば安全であると言われたとか、今思えばばかばかしいとしか思えないようなことが、為政者によってまことしやかに語られ、それをほとんどの民衆が信じていた、という構造を聞くと、今日の首相の話も、その延長なのではないかとすら思えてくる。
日本人は昔から、騙されやすい、おめでたい民族なのかもしれない。その内なるDNAを感じつつ、原発の問題も考えたい。あくまで謙遜に。
夏草に ゆくべき道を 教えられ