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希望の日に

4月4日 

今日はイースター(復活祭)
日本ではほとんどクリスチャンだけの一日だが、たとえば北欧の学校ではこの週1週間が休日になったりする。

今年は残念ながら大石沢地区の大切な集まりと重なってしまい、山形南部教会にはいけなかったが、水野源三さんの「こんな美しい朝に」のままの、美しい1日だった。スミレはまだ咲かないけれど。

     こんな美しい朝に     水野源三

   空には 
   夜明けとともに 
   ひばりが鳴き出し
   野辺には 
   つゆに濡れて 
   すみれが咲き匂う

   こんな美しい朝に 
   こんな美しい朝に
   主イエスさまは 
   よみがえられたのだろう

**
このブログも小国フォルケも、宗教にとらわれず全ての人に開かれていたいと思ってきたので、小国フォルケの中心である聖書の話や主イエスのことはあまり直接には書かずにいるが、今日は特別な日なので少し、、、。

キリスト教の中心ともいえる重要なできごとは二つあって、一つはイエスが十字架にかかられたということ。
そして、もうひとつが、3日後によみがえられたということ。

イエスが十字架にかかられたことは史実としても認めるが、それがこの私の罪の許しのためだなんて信じられないし、ましてや一度死んだ人間がよみがえるなんてことは到底信じられない、ナンセンスという人も多いと思う。

復活については、私にもそういう気持ちや疑いがないわけではない。しかし、復活のできごとがなければ、聖書に本当の希望はないのだとも思う。

もしかしたら世界の歴史の中でたった一度だけ、そういうことがおこったのだということは否定できない。
また、怖くなってイエスを捨てて逃げ出してしまったような、だらしのない弟子たちが、明らかにX(なにか起こった)の出来事によってすっかり変えられて、再び勇気と希望を持って勇敢に歩き出しているということも事実なのだ。

イエスの復活、そのできごとによってもたらされる希望、地上での私たちの死が全ての終わりではない、という聖書の約束を、私は信じたいと思っている。

ただ、地上での死が終わりではないという考えは危険な要素をもはらんでいて、自爆テロの実行犯はそのことを信じるからこそ、悲惨な死を選ぶのだろう。しかしそれは間違っている。地上の生活こそ大切にされなくてはならない。

「わたしたちは明日のことはわかりません。だからこそ、キリストに希望を託して、精一杯今日を生きる必要があります。私たちの困窮の日に、キリストは復活の力とともに、一緒にいてくださいます。私たちの人生が、『よみがえったキリストの存在の力』で『助けられ、生き返った』といえる生き方が可能です。」
今日の関根一夫さんのメッセージから

あの弟子たちよりも、さらにはるかにだらしのない生き方しかできない私だが、ここに希望を託して、今日を精一杯生きたいと思う。
by oguni-folke | 2010-04-04 18:53
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